2019年9月5日木曜日

『水界園丁』を読む(5)

 「夏」の章を見てみよう。すでに作者の術中にかなりはまっている自分にあらためて気がつく。

  五月来る甍づたひに靴を手に  生駒大祐
 この二句後には「夏立つと大きく月を掲げあり」があり、さらにページをめくると「夏の木の感情空に漂へり」がある。生駒ワールドでは「五月」も「夏」も「木」も、あるいは「雲」も世界の構成要素として生命を与えられている。「春」の章には「佐保姫に紅ひく神の大きな手」があったが、動植物のみならず時や気象現象も佐保姫と同じように神に司られた生命体で、ときに人の姿をまとう。単に擬人化によりうまいこと言ったぜという底の浅い措辞ではないようなのである。

  雲を押す風見えてゐる網戸かな
 ここでの「風」もそのようにして生命体である。この一句だけ見れば、人によっては聖教新聞のテレビCMの「僕は風さん見えるよ」という子役を思い出すかもしれないが、句集をここまで読んできて感じるのは、俳句を通じて自然と接することにより獲得したであろう独自にして強固な世界観である。

  心中のまづは片恋たちあふひ
 道ならぬ一途な想いの行く末が初めから見えているのだろう。「たちあふひ」の軽佻浮薄なうつくしさがなんとも不吉である。

  蟬の穴より浅くあり耳の穴
 「蝉の穴蟻の穴よりしづかなる 三橋敏雄 」へのオマージュだろう。まこと人間が見聞きできるのは表層のできごとでしかない。

  蚊遣の火消えゐる波の響きかな
 幼少の旅行の記憶だろうか。波の響きにふと目が覚めると蚊取線香の火が消えている。状態の持続の「ゐる」と「波の響きかな」と句末に詠嘆する語順が絶妙である。

  夕凪の水に遅れて橋暗む
 「遅れて」がよい。平面である水面に比べれば鉛直に立ち上がっている橋の側面は、そのぶん夕日を受けている時間が長いのだろう。それが暗くなるまで見届けている時間の経過が「遅れて」である。先の「蚊遣」句の「ゐる」といい、本句の「遅れて」といい、時間の経過の捉え方のゆたかさがじつによい。俳句は一瞬を切りとったものがよいとする言説をしばしば見かけるが、決してそれだけが俳句ではない。

  暇すでに園丁の域百日紅
 そのあたりを自解した句なのだろう。『水界園丁』という句集では、そのように時間が流れている。

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