渋川京子『レモンの種』(ふらんす堂)は、かれこれ四十年近い俳歴を持つ著者の満を持した処女句集だが、とにかくすごい。もしこの日記を読んでいるあなたが句集を出そうとしているなら、今年はやめた方がいい。絶対勝ち目がない(もちろん、勝ち負けで俳句をやっているわけではないんだけど…)。しばらく、この句集について書く。
いちにちの赤きところに滝の音 渋川京子
潮うごく前のしずけさ桃にあり
鳥渡る風にいくつも覗き穴
これらの句は、俳句以外の表現では代替不能で、散文にパラフレーズすることは不可能だし無意味である。それなのに、ずっと昔から「いちにちの赤きところに滝の音」がすることを知っていたような感じが確かにするし、「潮うごく前のしずけさ」が桃にあったような気がするし、「風にいくつも覗き穴」があったような既視感がある。既視感がありながら、そんなふうに詠んだ人はいない。人のこころのある局面を、まさに「覗き穴」から客観写生のクールさで言い止めたような静謐な味わいがある。
「いちにちの赤きところ」にありつつ「滝の音」を聴きとめる姿勢は、句集全体(あるいは渋川京子の俳句的生涯)を貫いていて揺るぎない。
「さくら餅たちまち人に戻りけり」と言う句はどこかで見たような。。。しかし、どこか、既視感に近い感じがして、心引かれる。
返信削除平凡なことに、句集をあまり読まないので「しずる」とか「自動生成」のようにな、現代美術に近いような、575を画像でシャワ-のように延々と流れるのを、無自覚に浴びている感覚は、私的には案外好ましく思います。
「さくら餅たちまち人に戻りけり」はふらんす堂のHPにある自選十句の中の句ですね。自選十句でも巻頭句でもない句から語り始めてしまいました。「さくら餅」の句、一瞬の放心というか茫然自失というか、がいいですよね。
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おぼえがありませんか
絶句したときの身の充実
できればのべつ絶句していたい
でなければ単に唖然としているだけでもいい
(谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』より)