2010年2月8日月曜日

渋川京子『レモンの種』5

 渋川京子は未亡人である、と書き出したら失礼に過ぎるだろうか。歳を重ねて生きることは、伴侶、肉親、親しかった人々の死と直面し、それを受け入れて行くことに他ならない。死を直接詠んだ句では、このような句がある。
 
良夜かな独りになりに夫が逝く   渋川京子
なかんずく白菊に堪え死者の顔
死にゆくに大きな耳の要る二月
死者もまた旅の途中か春の蝉
出棺のあとさきに滝現われる


 「良夜かな」の句以外は、どなたが亡くなったのかは明示されていない。「良夜かな」の句にしても、「独りになりに夫が逝く」の揺るぎない措辞は、もはや渋川京子のパーソナルな体験以上のところへ昇華されている。死を直接詠んだ句においても、滝が現れる。この滝は「いちにちの赤きところ」で鳴っている滝であり、この世ならざるかなしみの声に他ならない。渋川京子にとって、未亡人として生きて行くことは、その声を伝えることなのである。

われら紅葉夫あるなしにかかわらず

 老境に生きる喜びとかなしみを詠んだこの句が、しずかに私の胸を打つ。

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