渋川京子は水でできている。すくなくとも作句に向かう意識の中では、そのように自覚されている。そして、その水はときにエロスを湛え、ときにかなしみを湛えている。あるいはエロスとかなしみは渋川京子にとって同義である。
海鳴りをこぼしつつ解く夏の帯 渋川京子
夏帯のなかひろびろと波の道
水中花一糸まといて咲きいたり
氷柱よりきれいに正座し給えり
夏帯の句はいささか類型的かも知れないが、一転して氷柱の句はどうだろう。なんと引き締まった美へのあこがれだろう。「給えり」と尊敬の助動詞で詠まれた架空の対象は、他者のようでいて渋川京子の美意識に他ならない。
そして、渋川京子は水に包まれている。見えない水を感じて溺れ、闇を水のように湛えている。
水際の匂いこもれる菊枕
まっさきに睫が溺れ蛍狩
見えぬ手を濡らしたっぷり昼寝する
緑陰を抜けて両袖水浸し
雛飾り川の満ち引き映る家
船着場まで陽炎にもたれゆく
水吸って人の匂いの苔の花
霧深し自分を寝押しするとせん
紫蘇をもむ満々と夜が湛えられ
かたちを変えつつ確かに存在する見えない水に包まれるとき、渋川京子はこの世にしてこの世ならざるところに身を置いている。いっけんただの客観写生に過ぎない雛飾りの句や船着場の句でさえ、句集全体の中に配置されるとき、妖しげな気配を放ち出す。
【追記】
『―俳句空間―豈weekly』2008年10月18日土曜日号で、渋川京子について書かれている。その記事を見ると「氷柱」の句は句集収録以前の発表形では以下だったことが分かる。
氷柱よりきれいに母の正座かな
具体的な「母」を消して「し給えり」と結んだ推敲が、じつに見事である。
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