2011年12月17日土曜日

エクリチュールの快感

くちなはとなりとぐろより抜け出づる 山田露結

 この旧仮名遣いで書かれた句、初見でうまく読めましたでしょうか。私など「となり」なんて言葉が目に飛び込んだりして、かなり訳が分からない状態になるのですが、この訳の分からなさこそ、この句の味わいなのだと感じます。なんだか分からないものが動き始めたら実は蛇だったという、そのなんだか分からない感じが、書かれた文字の塩梅によって伝わってきます。

われの目に抱く吾子の目に遠花火 山田露結

 これは分配の法則で同類項をまとめたものではありません。
   (「われの目に」+「抱く吾子の目に」)×遠花火
ではなく、マトリョーシカのように対象が絞られているのです。強いて数式っぽく記述するなら
   われの目に(抱く吾子の目に「遠花火」)
なのです。書かれた文字の塩梅をそのまま追って行くことによって感じられる我が子へのまなざし。それを実現する技巧。俳句の快感って、こんなところにもあるのだなあと、改めて感じます。

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