2014年5月5日月曜日

俳句の骨法  齋藤朝比古句集『累日』を読む

 どういう訳か齋藤朝比古さんのことを考えようとすると「俳句の骨法」という言葉が頭をよぎる。多分朝比古さんが誰か別の人の作品に触れて「俳句の骨法をよく理解した上で独自の…」みたいなことを書かれているのを偶然読んで印象に残っているのだと思うが、いま確かめるすべはない。すべはないのだが、とにかく私の脳の中では齋藤朝比古→俳句の骨法という条件反射ができあがっている。私は朝比古さんの伝記的な事実はほとんど知らないので、単に書かれた俳句作品を読みながら、俳句の骨法とはなんなのか考えて行きたい。句集は数年ごとに六章に分かれているが、句柄の変遷があるわけでもなさそうなので、章立ても無視して拾ってゆきたい。

一 目の焦点をずらす
 俳句というのはもしかしたらある種の宗教かも知れない。スピリチュアル小説のジェームズ・レッドフィールド『聖なる予言』には、しばしば目の焦点をずらしてエネルギーを見る場面がある。それをエネルギーだ、オーラだと語ると危ない人だと思われたり、友人を失ったりしかねないが、俳句の場合はどうだろう。その見えようを「発見」として称揚し、「新鮮な驚き」としてありがたがっていたのではなかったか。たぶん宗教家が修行を積むように、俳人も修業を積んで骨法を獲得するのだ。普通のことが普通に見えているうちは俳人にはなれない。

  ひとつづつ影を増やして雛飾る

 雛壇に雛人形を飾るとき、おのずと雛人形の影も増える。まったく当たり前のことで、実社会ではなんの役にも立たない。もし子どもがそんなことを言ったら「馬鹿なこと言ってないで勉強しなさい」と叱られるのが関の山だろう。ところがひとたび俳句形式として作品に定着させるや否や、それは発見として読むものの心を捉えて離さない。まさに俳句の不思議である。「影」としか書いていないことによって、見えてくる溢れる光。言外のはかなさ、作中主体の屈託。

  鬼やんま頭運んできたりけり

 生物が移動するさまを捉えて、その身体部位を運んでいるとはふつう感じない。これも修行によって到達した極意だろう。そしてそう書かれたとき、読者は改めて鬼やんまの異形に思い至る。ある種の俳人の目の焦点は確かにずれているのだ。そしてそこで見えたものは、誰もエネルギーとかオーラとか呼ばないけれど、俳人という共同体の中では、もっとも尊ばれるべきものなのである。

ニ 言葉を遊ぶ

 言葉の中には、語源的にさらに要素に分解できるものがある。多くの場合それをいちいち分解して用いることはないのだが、なにかの拍子にその要素が急にメッセージを主張し出すことがある。そうしたメッセージを鋭敏に捉えることも修行のひとつだろう。

  北窓を開けば北を向いてをり

 唖然とする。そりゃそうだ。単に諧謔と呼ぶのとも少し違うだろう。これは氷山の一角に過ぎず、作者は複合語を見ると、これは俳句にならないだろうかといちいち分解しているのではあるまいか。

  風花の風なくなつてしまひけり

 こちらはたまらなく切ない。でもそれが風花というものなのだ。単にリフレインと呼ぶのとも少し違うだろう。歳時記に載せて人類が続く限り伝えてもらいたい句である。

三 脱衣

 章の見出しとしてもっと適切なものがありそうだが、朝比古句には脱衣の句が多い。もののありようが変わるとき、そこに変わるものと変わらぬものを見出す、という試練をおのれに課しているかのようである。

  マフラーをたためば重さありにけり
 巻いているときには感じなかったマフラーの物質としての重さが、たたんでみると忽然と感じられる。その意識の変化の不思議さをさらりと捉えている。

  セーターを脱ぎてセーターあたたかし

 同工であるが、体温という陶然とするぬくもりに対する根源的な嗜好が、リフレインという作句技巧をまとって表現されている。

四 手品

 朝比古句には、ときどき手品に騙されるようなものが混ざっている。読みながら、騙されてはいけない、騙されてはいけない、と過剰に反応し、論理的な正当性を検証したくなるような句だ。

  脱いで着て脱いで水着になつてをり

 またしても脱衣である。何か騙されているような気がするのだが、実際に水着に着替えるプロセスを検証すると、確かにこうなのだ。水着の上に、脱ぐためのものをわざわざ一枚着る人類の習性。それを「なつてをり」と詠む作者の立ち位置は動物行動学者の視線だ。

  ふらここの影がふらここより迅し

 手品系の最たるものは本句だろう。最初これはうそだと思った。円弧を描くふらここの方が平面上を直線運動する影より大きく移動するのだから、本当はふらここの方が速いのでは、と。大きく移動する分、ほんものは明らかに遠回りして感じられ、その分遅く見えるだけでは、と。でもよくよく考えてみると、本当に影の方が速い場合がある。
 簡単のため、ふらここの軌道を半円とし、ふらここが一番下がったとき地面に接し、太陽は左上45度の無限遠点にあり、ふらここが左から右に進み、半径rとする。
 最初に思ったのは、影は2rしか進まず、ふらここは2πr/2進むのだから、どう考えたってふらここの方が速いではないか、ということだった。が、よく考えると、起点からふらここの軌道が太陽光線と接する左下45度の位置まで、影は逆に左へ進む。ふらここが左下45度を過ぎると影は右に進むようになる。そして、影は最下点から2r右に進む。影が最下点から2r右に進む間、ふらここは半円のさらに半分を進むので2πr/4=πr/2移動する。2>π/2なので、影の方が速いのである。





五 フォーム
 齋藤朝比古といえば有季定型である。が、そこに一途な重みや悲壮な決意のようなものは感じられない。むしろ、優れた変化球投手がどんな球種でも同じフォームから繰り出すことができる、そんな飄々としたイメージを感じる。落語家は自分が笑っちゃいけない、とも言い換えられるか。そのようにして、ぬらりひょんと焦点のずれた句や言葉遊びの句や手品のような句が、まったく同じフォームから繰り出される。結局のところ俳句の骨法とは、五七五のことなのである。






『豆の木』No.18(2014年5月)初出

2014年2月16日日曜日

七吟歌仙・人日の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   人日の空気人形痩せにけり     七
    七種囃すけつたいな節    ゆかり
   青丹よし平城京に棲みつきて   銀河
    野積みされたる旧式ポスト まにょん
   入船は河口に月は中天に     ぐみ
    われらは窓に爽籟と在り    なむ
ウ  歓声のよく谺する運動会      令
    印刷室に残る落書        七
   鍵かけて愛の扉を開くべし     り
    女心は空飛ぶ絨毯        河
   目覚めれば黒子数へる指があり   ん
    夏芝居では木偶をあやつり    み
   むきだしのCDに似て月涼し    む
    鴉逐はれて山の塒へ       令
   春の水踏んづけてゐる子らの笑み  七
    石鹼玉吐く赤い風琴       り
   パーティーの果て前庭の花明かり  河
    太宰治は跨線橋へと       ん
ナオ 見下ろせばラットレースの人の波  み
    酢漬けでできる万能細胞     む
   割烹着すがたでぴよんと跳ねてみる 令
    賞味期限のみな切れていて    七
   断捨離の流れ久遠に轟ける     り
    ターザンが棲む密林の滝     河
   火星では美女や怪獣入り乱れ    ん
    千の蛍をまとひ君待つ      み
   たがよきかさても雨夜の品定め   む
    一振りのまた黄金しろがね    令
   月光写真世界の果てを露光する   七
    菌に貯まる地縁血縁       り
ナウ 穂芒の頭髪うすき国訛り      河
    淡き墨にて宛名記せば      ん
   雪代の濁りになじむ陸と海     み
    仔猫らに説く専守防衛      む
   花をみて九条通りに塔をみて    令
    ふくらんでゆく夢のまた夢    七


起首:2014年 1月 8日(水) 
満尾:2014年 2月16日(日)
捌き:ゆかり 

2014年1月4日土曜日

七吟歌仙・山脈の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   山脈に泳がせてゐる鯨かな       銀河
    千億年は続く冬らし        ゆかり
   らふそくの炎かすかにまたたいて  まにょん
    母の形見の未明の童話         七
   芋坂を月に誘はれ団子屋へ       苑を
    扇を置いて真ん中の兄        泥酔
ウ  金髪の案山子おへそにピアスして    ぐみ
    赤いソファーで待ちくたびれた     河
   ごめんねと舐める涙に塩の味       り
    死海文書の謎深まりて         ん
   からくりの箱を土産に夏の旅       七
    月の欠片を冷蔵庫から         を
   犀のせて歌姫の船たゆたへば       酔
    繰り返し積む河原の小石        み
   楽園に実は秋根は冬弥陀笑まふ      河
    ときに逃げたる鰐も覗かせ       り
   海に散る因幡の花は魂となり       ん
    スペ-スシャトルで吹く石鹸玉     七
ナオ あまちやんの最終回を見逃して      を
    古漬ひとつ残る糠床          酔
   冬の野に大皺小皺くろぐろと       み
    新幹線がつなぐニッポン        河
   ざりがにの色あざやかに星条旗      り
    キャンベルスープの缶を開ければ    ん
   混沌のなかより無常つまみ上げ      七
    菊人形の指が不自然          を
   独酌の栗名月の酔ひごこち        酔
    十三里来て冬を待つ駅         み
   ピラミッド見上げる汗を思ひをり     河
    夢の金魚の揺れる玄室         り
ナウ 口笛を草原渡る風にのせ         ん
    大空翔るパラグライダー        七
   地球軸まはせば海のあふれくる      を
    荒れをともなひ比良の八講       酔
   あふぎみる花吹雪こそしづかなれ     み
    囀みちる始祖鳥の杜          河


起首:2013年11月26日
満尾:2014年 1月 4日
捌き:ゆかり

2013年11月4日月曜日

七吟歌仙・帰燕の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   二度三度橋をくぐりて帰燕かな  まにょん
    釣瓶落としの歪む輪郭      ゆかり
   月明に子規の色紙を取り出して    銀河
    飛球・走者と文字なぞりつつ    ぐみ
   神宮の森に復員兵集ふ        なむ
    夜店に並ぶ義足や義眼        七
ウ  離岸流切り分けてゆくクロールの   泥酔
    姫の敷布をそつと抱きしめ      ん
   天鵞絨の襟に埋める泪顔        り
    一角獣は犀の眷属          河
   洞穴の壁画に狩の息づかひ       み
    石蠟に似て凍空の月         む
   たましひの容れものはみな不定形    七
    方円となる酒は上善         酔
   裏庭に七賢おはす朧にて        ん
    たかまつてゆく春のオルガン     り
   窓外のいよよ明るむ花ふぶき      河
    カーテン揺れて金魚ひらりと     み
ナオ 夜の襞へ苔清水浸み入る如し      む
    遠く近くに覚ゆる吐息        七
   後ろ髪結ひあげかねつきぬぎぬは    酔
    第五レースではや素寒貧       ん
   降る雪が良貨も悪貨も駆逐する     り
    噴火噴煙やつと已むとも       河
   煮詰まりしどぜう鍋なりどうしやう   み
    行方不明のをととひと肚裡      む
   迷ひこむ九龍城は深い秋        七
    截拳道の師父冷まじく        酔
   墓石に鋭き月の光射し         ん
    猿が太鼓を叩く始まり        り
ナウ 顔見世に若手役者の勢ぞろひ      河
    改築済んで横文字ふやし       み
   止り木を降りて喫煙席探す       む
    春の水踏む公園通り         七
   まなじりに帯に小袖に花尽くし     酔
    空を畏れず溢れ出る蝶        ん


起首:2013年 9月18日(水)
満尾:2013年11月 4日(月)
捌き:ゆかり

2013年6月11日火曜日

詩レ入句会(9)出題

 ほぼ半年ぶりの出題です。いよいよⅢ章です。とはいえ、論考は次第に俳句に応用しづらい地平へと向かっているので、途方に暮れてそれっきりになっていたのでした。

Ⅲ章 詩と散文のあいだで
1 「かやの実」の不思議

 北原白秋に「かやの実」という短歌に似た韻律を持つ詩があり、同じ白秋の短歌「から松」や白秋の自解を引用しつつ、北川透は論考します。

かやの木に
かやの実の生り
かやの実は熟れて落ちたり、
かやの実をひろはな。

北原白秋「かやの実」

 こんな歌があるものかと批判されて、白秋が反論のためにあえて短歌に仕立てたものは以下。

かやの木にかやの実のなりかやの実は熟れて落ちたりその実ひろはな

 これに対し北川透は<白秋が、もし、はじめから歌をつくるつもりだったら、決して、こんな発想はとらないだろう>として、白秋の「から松」を紹介します。

から松にから松の影うつりをり月の山路に眺めて来れば

 北川透曰く、<後者は叙景とそれを叙する作者の眼の位相とが、音数律の構成における上句と下句として、きっちり対応させられているが、前者にはそんな短 歌的な構成の意識が、まったくないところが、発想として根本的に違うのである。「かやの実」は、韻律がほぼ短歌の形式をもっていても、それを書き下ろした 時に、しまりのない(歌らしくない)印象を与えるのは、そこに理由がある。では、それを行分けにしたときに、まさしく詩にほかならないものとして、好まし い印象を与えるのはなぜだろうか。>と。
 続けて白秋の自解(繰り返しの省略をも想定した面白いもの)を紹介した上で、白秋が<気合>とか<味>と呼んだものを北川透は論理的に解いてみせます。

 たしかに、そこで《かやの》ということばは繰り返され、それが聴覚的、視覚的に、頭韻としてのひびき合いの効果を生んでいる、と言っていい。しかし、そ の同語と繰り返しと見えるものも、行かえ(余白)を媒介にして、意味の変化を生み出していることに注意すべきである。一行目のかやは木をさしており、二行 目のかやはなったばかりの実をさし、三行目のかやは熟れたそれ、四行目は落ちているそれである。つまり《かやの》木や実は、その下に連接されることばとの 関係で、同じ<かや>でありながら、それこそ微妙な意味の差異をつくりあげている。この詩は、そのことを通して自然や宇宙の流転のもつ神秘さや淋しさを象 徴しようとしている。とすれば、《かやの》の省略は、ことばが同じでありながら、意味だけが微妙にずれてゆく過程を見えなくしてしまい、それはたしかにこ の詩の<いのち>を奪ってしまうことになるだろう。(後略)

 この後、白秋が口語自由詩を批判したことに関するくだりも面白いのですが、それは割愛して、お題です。俳句の場合、重信とそのフォロワー以外は、まあ改行などせず、貫く棒の如く書くわけですが…。

【繰り返しの句】(2~3句)
【繰り返しを省略した句】(2~3句)

投稿締切:6月15日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

よろしくどうぞ。